映画「ミッシング」は幼女の失踪事件を扱った、重い重い物語。感情移入しすぎて辛くなってくるが、画面から目を離すことができない。まるで自分が画面の中にいるような感覚すら覚える。
これまで素晴らしい映画やドラマは数多く観てきたが、ミッシングは五本の指に入るだろう。すべての人が当事者となってこの映画を観るべきだと思う。
体当たりの役者たち:実力派ぞろいの圧倒的な演技
娘が失踪し、出口のない暗闇に突き落とされた家族。
どうにもできない現実との間でもがき苦しみながらも、その中で光を見つけていく。
失踪した娘を懸命に探し続けるが、夫婦間の温度差や、マスコミの報道、SNSでの誹謗中傷により、いつしか「心」を失くしていく母親・沙織里を演じたのは石原さとみ。「母となった今だからこそ、この役と向き合えた」と語り、これまでのイメージを一新させる新境地に体当たりで挑んだ。
さらに、沙織里たち家族の取材を続けるテレビ局の記者・砂田に中村倫也、沙織里の夫・豊に青木崇高、娘の最後の目撃者となった沙織里の弟・圭吾に森優作、ほか豪華実力派キャスト陣が集結!
常に観客に衝撃を与え、想像力を刺激する作品を発表し続ける“人間描写の鬼”??田恵輔が、「自身のキャリアの中で最も覚悟のいる作品」と語る本作は、雑音溢れる世の中をリアルに、そして繊細に描き、そこに生きるわたしたちの心を激しく揺らす。
「ミッシング」あらすじ
とある街で起きた幼女の失踪事件。
あらゆる手を尽くすも、見つからないまま3ヶ月が過ぎていた。
娘・美羽の帰りを待ち続けるも少しずつ世間の関心が薄れていくことに焦る母・沙織里は、夫・豊との温度差から、夫婦喧嘩が絶えない。唯一取材を続けてくれる地元テレビ局の記者・砂田を頼る日々だった。
そんな中、娘の失踪時に沙織里が推しのアイドルのライブに足を運んでいたことが知られると、ネット上で“育児放棄の母”と誹謗中傷の標的となってしまう。
世の中に溢れる欺瞞や好奇の目に晒され続けたことで沙織里の言動は次第に過剰になり、いつしかメディアが求める「悲劇の母」を演じてしまうほど、心を失くしていく。
一方、砂田には局上層部の意向で視聴率獲得の為に、沙織里や、沙織里の弟・圭吾に対する世間の関心を煽るような取材の指示が下ってしまう。
それでも沙織里は「ただただ、娘に会いたい」という一心で、世の中にすがり続ける。
我が子が突然いなくなった夫婦の悲劇
6歳の娘・美羽が突然失踪した。物語は失踪3か月後、という設定で始まる。夫婦が駅前でビラを配っている。無視して通りすぎる人が多い。それでも、お願いします、お願いしますと必死でビラを配り続ける夫婦。二人とも、娘の帰りを信じて待っているのだ。
親は、どんな状況でも、最後まで娘が生きて帰ってくることをあきらめない。そういうものだ。だが、そんな生活はいつまで続く?なんの手がかりも得られないまま、1年、2年と無常にも時は過ぎ去っていく。
娘が失踪してから、手がかりもないまま、7歳の誕生日が来てしまう。娘がいない誕生日。娘が帰ってきたら、その時は一緒にお祝いできるねと、心の中で信じている。悲しいけれど、誕生日おめでとう。両親の切なる願いをかなえてあげたい。早く戻ってきますように。画面を見ながら祈らずにはいられない。
母親役の石原さとみは、娘がいなくなって壊れていく母親を見事に演じている。彼女自身も一児の母である。胸をかきむしるような狂気とはこのことだろう。
父親役の青木崇高は、壊れていく妻を案じ、自らは壊れないように必死で状態を保とうとしている。配るビラも無料ではない。毎月の印刷費にも事欠く始末だ。まわりからの援助も徐々に先細っていく。それでも、娘が見つかるまでやめるわけにはいかない。
疲弊していく、両親。子どもを持つ親なら、ぜひ観たほうがいい。子どもがいてくれるだけで、それだけで幸せなのだ。
心が痛くなる映画だ。だから観ないほうがいいとは全く思わない。観ないということは、現実から目をそむけるだけだ。現実を観ないと、生きてはいけない。
最後に美羽ちゃんに会った弟の罪悪感
いなくなった美羽ちゃんと最後に会っていたのは、母・沙織里の弟、圭吾である。圭吾はいつものとおり、美羽ちゃんと公園で遊んであげていた。公園から家までは300メートル。帰りは、いつも家まで送っていくが、その日に限って美羽ちゃんを一人で帰らせてしまった。
そのことが、圭吾が失踪に関わっているのではないかと世間やメディアから誤解されることになる。さらに、圭吾はそのあとすぐに家に帰ったと警察に述べていたが、実際に帰宅したのは夜の10時だった。そのことが判明して、さらに圭吾が疑われることになったのだが、実は圭吾は闇スロットをやっていて、それを隠すために家にいたと証言していたのだった。
最初から本当のことを言っていれば、警察の初動捜査も違っていただろう。後から後悔しても遅すぎた。
圭吾は美羽ちゃんのことが好きだった。もちろん、帰ってきてくれることを信じている。だが、圭吾の行動は空回りするだけ。姉の沙織里とも、姉の夫の豊とも、お互いの心にすき間風が吹いている。心の闇を埋めてくれる光は差し込まない。
この物語には実話がある
世の中、幼い子どもが行方不明になり、いまだに解決されていない事件はたくさんある。そういう意味では、この映画は様々な「失踪事件」の実話と言えるだろう。
皆の記憶に一番新しいのは、山梨県のキャンプ場で幼い女の子が行方不明になり、かなりの日数が経ってから別の場所で骨が発見されたという、痛ましい事件である。
あの事件では、当時母親が犯人ではないかとあらぬ疑いをかけられた。ネットでも勝手な憶測が散見され、母親を責める書き込みも山ほど見られた。母親はどれほど苦しんだことだろう。
「ミッシング」でも、母親の沙織里に対して、誹謗中傷が掲示板にたくさん寄せられていた。沙織里は、失踪当時、自分が好きだったグループのライブに行っていたのだ。「育児放棄」とまで決めつけられた沙織里。
ネットの闇は深い。匿名という隠れ蓑の元に、言いたい放題のコメントが散乱している。それを見て傷つくのはもちろん沙織里だ。
山梨の事件に限らず、事故や事件の被害者に、なぜか誹謗中傷の電話やメール、SNSの書き込みなどが山ほど寄せられるそうだが、なぜだろうか。日本人はここまで劣化してしまったのかと思うと、やりきれない。
書き込みしている人間が、日常生活ではにこやかに「こんにちは!」などと挨拶を交わしているのだろうが、心が凍り付くようだ。
今はあまりにもひどい誹謗中傷の書き込みは、早期の「情報開示」がなされているようだ。映画でも、夫婦は相手への訴訟を行うために、弁護士に相談し、最終的に誹謗中傷した本人の名前が公表された。
これからは、匿名だから何を書いても大丈夫という、「書き逃げ」は許されないだろう。
マスコミは味方なのか敵なのか
幼女の失踪事件となると、マスコミは「恰好のネタ」として大勢駆け付ける。相手のプライバシーも何も関係なく、暴けるものはどんどん暴く。テレビ局は視聴率が命だからだ。
テレビの宿命だと言えばそれまでだが、テレビ局は視聴率を上げるためならどんな手段も選ばない。「ミッシング」でも、ひとたび弟の圭吾が怪しいと思えば、徹底的に圭吾に取材を申し込み、「怪しげ」に見えるような絵を描き、大げさに取り上げ、視聴者の興味をできるだけ引っ張れるようにする。
そんな上からの指示に、この事件を長期に担当する砂田(中村倫也)は悩み、考え、迷い、行動する。ベテランの域に入った砂田は、取材相手の気持ちに寄り添えば寄り添うほど、視聴率を第一優先にはできなくなっていく。
だが、そんな砂田はある時、同行しているカメラマンから「砂田さんは、この事件の行先をどう考えているんですか」と尋ねられ、「このご家族にずっと寄り添っていくことかな」と答える。
カメラマンは「意外ですね」とつぶやく。「美羽ちゃんが無事に帰ってくることだと思ってました。」
砂田はハっとした。カメラマンの言うとおりだ。だが、自分はいつのまにか「美羽ちゃんは帰ってこないもの」と知らず知らずのうちに思い込んでいたのか。
砂田は、あと少しで心が闇に落ちていくところだった。カメラマンのひと言で救われたのだ。
砂田役は中村倫也。中村は「はまり役」だった。中村の優しく、思いやりのある口調とセリフ。相手の心を逆なでしないよう、出来る限りの配慮をもって取材をする。だが、取材に来た以上、何がしかの成果を局に持ち帰らなければならない。
取材相手の気持ちに寄り添いたい、だが、視聴率のために無茶なことはしたくない。そんなテレビマンの葛藤を、中村は巧みに演じていた。
すべてのテレビ局の人間が、砂田のような考え方だったらどれほどよいだろう。だが、それはテレビ的に「不合格」なのだろう。
視聴率とは、なんだろう。テレビってなんだろう?少なくとも、真の姿を視聴者に伝えることではなさそうだ、ということだけは分かった。
「ミッシング」はフィクションではない
「ミッシング」は、特に何かひとつの事件を基に描かれたストーリーではない。逆に、あまりにも多くの失踪事件が基になっているとも言える。これが、この映画が私たちに提示する「真実の恐ろしさ」である。
現実に、今まさにこの時間、自分の子どもの帰りを待っている親がいるだろう。毎日毎日、手がかりを求め、さらには「保護された」という嬉しいニュースを待っているだろう。
ミッシングでも、「警察に無事保護されました」というイタズラ電話がかかってきている。大喜びで警察に飛び込む沙織里は、その情報が「ニセモノ」だと知らされる。天国から地獄へ突き落される、母親の気持ち。
イタズラ電話をかけた人間も、裁かれるべきである。心の底からそう思う。そんなイタズラ電話は、この映画の中だけの話だとどうして言えようか。
まさに、この映画はフィクションではない。様々な事件が合体した「ノンフィクション」である。
物語の結末は、ハッピーエンドであってほしいと思う。だが、現実はそうではない。
子どもを持つ親は、常に子どもをそばに置いていなければならない。大変だろうが、多くの場合、「ほんのちょっと目を離したすきに」子どもはいなくなってしまうのだ。
子どもを守らなければいけないのは、大人である。自分の子だけでなく、すべての子どもを守っていこう。それが、今残された私たちにできる、ただひとつの大人としての行動である。