映画【渇水】生田斗真・磯村優斗が演じた「水を停める」仕事の悲劇と葛藤

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映画「渇水」は、水道料金をなかなか支払わない家庭を一軒一軒訪ね、払う予定がない、あるいは払うつもりがないと分かると、その場で水道を停める、そういう仕事の話。

いや、水を停める仕事だけの話ではない。家族のこと、貧困、子育て放棄(ネグレクト)など、様々なテーマにスポットを当てている。

この記事では、特に「水道を停める」という仕事について、深く考察してみる。ネタバレ無しなので、安心してお読みください。

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目次

「渇水」とはどのような映画か

日照り続きの夏、市の水道局に勤める岩切俊作(生田斗真)は、同僚の木田(磯村勇斗)とともに来る日も来る日も水道料金が滞納する家庭を訪ね、水道を停めて回っていた。妻(尾野真千子)や子供との関係もうまくいかず、岩切の心もカラカラだ。

雨が降らなく日々が続き、県内全域で給水制限が発令される。そんな時、岩切と木田は二人きりで家に残された恵子(山﨑七海)と久美子(柚穂)の幼い姉妹と出会う。

父はとうに蒸発しているが、姉妹は「お父さんは船長さんでスエズ運河にいる」と健気にも信じている。母(門脇麦)は夜の仕事で帰ってこない。電気はとうに停められており、姉妹はロウソクで暮らしている。(これは非常に危ない。)

岩切と木田は、職務に従い姉妹の家の水道を停めなければならないが、生きるために絶対に必要な水を停めることは、姉妹の生死に直結する。岩切と木田は、いったんは「停水」を取りやめるが、自分たちの勝手に水道を出したり止めたりするわけにはいかない。葛藤を抱えながらも岩切は規則に従い停水を執り行う。(以下はネタバレなので書かないでおきます)

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「停水」という仕事

水を停めることを「停水」と言うのだそうだ。私はこの映画を観て初めて「停水」という言葉を知った。一般の人にはなじみのない言葉だ。

だが、世の中、電気代、ガス代、水道代を払えない人は多いだろう。電気は東電などの会社のどこかの施設で停めるから、知らないうちに停まる。だが、水道を停めるときは、人が来ないと停められない。そういう仕組みになっているからだ。

水道を停めてほしい人がいるはずもないし、水道局のほうも、停めたくて停めるわけではない。水道代を払ってもらえないなら、停めるしかないのだ。

だが、人は水無しには生きていけない。災害に会った人が口をそろえて言うことは「水がほしい」である。電気やガスが出なければ代替物があるからなんとかなるだろうが、人は水を口にしなければ死んでしまう。

そんな「ライフラインで最も大事な水」を停める仕事には、「やりがい」を感じる人はいないだろう。

現在では、停水の仕事は水道局の局員ではなく、外の会社にお願いしているそうだが、それとて、その会社の人が水を停めるのに変わりはなく、嫌な仕事だろうなあと思う。

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「人から感謝されない仕事をする」ということ

私は、これまで「誰かの役に立つのが仕事」だとずっと思ってきた。工場でどんな小さなパーツを作る仕事だって、箱に詰める仕事だって、道路工事の脇で旗を振る仕事だって、駅のトイレの清掃だって、誰かの役に立っている。

もっと言えば、誰かに感謝されたり、誰かがハッピーになったり、誰かがホッとしたり、誰かが安心したり、仕事ってどこかで間接的にそんなふうに思ってもらえるのが仕事だと、単純に思っていた。

でも、単純に思っていた私がバカだった。

確かに、「人に感謝されない仕事」が存在する。その一つが「停水」だ。

停水を行う木田

水を停めることによって、怒られたり、泣かれたり、嘆かれたり、ドアをバタンと閉められたり、居留守をつかわれたり、小突かれることぐらいあるだろう。

水を停めて、感謝されたり、喜ばれることは絶対にない。

そんな仕事を、一日中淡々と続ける。映画では「本日、停水14件、行ってきます」と毎日その日の停水予定の件数を報告して出かけている。そんな日が来る日も来る日も続くのだ。

いやになるだろう。

だが、誰かがやらなければならない仕事だ。

私だったら、気がめいって即刻辞めること間違いなしだ。

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放置された子供だけで暮らしている家

この映画のように、親がネグレクトで幼い子どもが置き去りになっている家もあるだろう。運がよければ児童相談所などの公的機関が面倒を見てくれるかもしれないが、社会から見落とされてしまう場合もあるだろう。今は、他人の家のことには関わらない人が多いから。

水道が停まることの意味を、子どもはよくわかっていないだろう。どうすれば水が出るのかも、水道代のことも、子どもは分かっていない。人に助けを求めることもできないだろうし、方法も分からない。

子どもは大人が守ってやる義務があるのだ。だが、その家の事情を水道局は知る由もない。水道代の滞納が続いていれば、職務で水道を停めなければならないのだ。

これって、この日本のどこかで起きていることではないかな?と考えてしまった。

この家は水道代をもう何か月も払っていない。いつ来てもいないし、いたとしても子どもだけ。子どもに聞くと、親はいつ帰ってくるのか分からないという。だから出直す。

このような事例はあるだろうし、何回も出直すわけにいかないから、何回か目には水道を停めて、親に渡してねと書類を残していくだろう。この映画のように。

でも、親が帰って来なかったら?そういう家ってあるよね。よくニュースでも見かける。

水道局にできることは限界がある

映画「渇水」では、水道局員である岩切や木田は「この家は幼い姉妹だけで暮らしていて、母はめったに帰ってこない」と知っていた。

だから、外回りをするときはいつも気にかけていたし、アイスを一緒に食べたり、水道を停める際はありったけの容器に水を貯めてあげたり、金魚の水も替えてあげたりしている。

たまたま母親を見つけたときは、水道代を払ってくださいとお願いするが、母親から「今はダメ」と言われればそれまで。無理矢理お財布を奪ってそこから金を出すこともできないし、家に入って金を探すこともできない。払えないと言われればそれまでだ。

事情を知っている岩切や木田だからこそ、その家の水を停めるのを延期もしたが、水道局員ができるのはそれくらいだ。根本的な解決にはならない。人の家の事情に踏み込むことはできないからだ。

母親がいつ帰ってきて、子どもたちの面倒をどれくらい見ているかまでは、岩切と木田は知りようがない。だから、児童相談所に通報することもためらわれるだろうし、それは彼らの仕事の管轄外のことである。

はたして、水道局員に何ができるのだろうか。彼らは毎日の仕事で手一杯だろう。

ましてや、今は専門の民間会社に委託しているそうだ。それならば、彼らは言われた場所に行き、停水するだけでよい。家のチャイムを押して水道代を請求することもしないだろうし、居留守をつかわれることもないだろう。

ということは、ますます「停水」する家の事情は分からないし、分からなくて当然なのだ。

水道局の局員、停水をする人の辛さに目を向けよう

この映画が問うテーマは多岐にわたるが、私は「停水」という仕事と、その仕事をする人々についてスポットを当ててみた。

特異な仕事ではあるが、日本中どこにでも停水をする人はいるだろう。私たちは気づかないだけだ。

この映画はエンタメでもないし、めっちゃ面白かった!と笑顔で見終わる映画でもない。すごく地味だ。

さらに、映画を観ながら「なんか、昭和の匂いがするな」と思っていた。かかっている音楽も少し古いし、なんだろうと思っていたら、なんとデジタルではなく、「フィルム」で撮っていたのだ!

だからなのか!、なんだか少し昔の映像を見ている気がしたのは。フィルム映画として違和感なく観られたのは、生田斗真と磯村勇斗の演技力が卓越しているからだろう。

デジタルと違って、フィルムは長さがあるから、せいぜい10分ぐらいしかフィルムを回せない。時間がかかり、手間もかかったことだろう。

だが、ダウンロードの音楽と、レコードで聞く音楽の違いのように、終わったあともじわじわと押し寄せてくる、何とも言えない感動。

そう。この映画は終わった後に自分の意識が変わっているのがすごい。もう、これからはどこの家にもある「量水器」のフタを見たら、何かを考えずにいられないだろう。

当たり前の水が、当たり前でないこと。

水道局員は、「人の生活」の縮図を見ながら仕事をしている。彼らに敬意を表したい。ありがとうございます。

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