【海のはじまり】最終回は無理矢理のハッピーエンド!イライラ、モヤモヤが残ることに

当ページのリンクには広告が含まれています。
スポンサーリンク

月9ドラマ「海のはじまり」、12回目を迎え、ようやっと最終回と相成りました。最終回を観終わって、「ああ、よかった!スッキリした!」と心から思える人ってどれくらいいるんだろう?と思います。

この記事では「海のはじまり」の終わり方が、なぜ「イライラ、モヤモヤ」感を引きずるのかについて考えます。今更考えたって仕方がないんですが、書かずにはいられません。

スポンサーリンク
目次

「予告」弥生の意味深なセリフが無かった!

ドラマの最後って、「予告編」がありますよね。パッパっと切り替わる映像と共に、セリフが細切れでいくつか。

ドラマの視聴者にとって、次の回の「予告」ってすっごく大事なんです。ドラマの制作者は、それを分かっていないみたいですね、どうやら。

というのは、前回の予告編で、こんな弥生のセリフがあったんです。

「夏くんのこと好きだった。忘れようとしたら、もっと寂しくなった」

これを聞いたときは衝撃でしたね。これまで弥生は最後まで夏のことを「月岡君」と呼んでいたので、いったいどういう心境の変化で呼び名を「夏くん」に変えたのか?と思いました。

もしも、これまで「夏くん」と呼んでいて、別れてから「月岡くん」になったのだとしたら、すごく納得しますよね。でも、その逆です。名前で呼ぶってことは、それだけ近くなってることですから。

呼び名って重要ですからね。突然呼び方が変わるはずもなく、絶対何か大きな心境の変化があったに違いありません。

視聴者は、次の週まで「あのセリフを言うってことは、復縁あり?」「やっぱり忘れられないんだろうか」「少しだけ戻るのかな」などと、考えているんですよね。

「忘れようとしたら、もっと寂しくなった」って言うことは、やっぱり別れたことを後悔してるってことなんだと思うじゃないですか。

で、最終回の時間がやってきました。

私は8時56分から大急ぎで部屋を片付けたり歯を磨いたり(磨くの雑!)して、オープニングからしっかりテレビの前に釘付けで、ひと言も漏らすまいと観ていたわけですが…

最後の最後まで、予告にあった「弥生のセリフ」を聞くことはなく、幕を閉じました。

えーーーーー?あれはなんだったの?もしかして、私がそこだけ聞き落したのか?

そう思ったのは私だけではないようで、どうやらXでは同じように驚いたり、がっかりしたり人たちがいろいろ書き込んでくれていたようです。よかった、私だけではなかったんだ。

で、私が言いたいことはですね。

番組の制作者の皆さん!あなたたちは、最終回がどうなるのか分かっているから気にしないのかもしれませんが、私たちは「次回の予告」しか情報がないわけです。

あのほんの少しの映像とセリフから、自分の最大限の想像力を掻き立てて、ああでもない、こうでもない、と考えるわけです。

で、番組の本編が始まると、「ああ、そういうことだったのね」と、がっかりしたり、喜んだりするわけです。それが、私たち視聴者の楽しみ方でもあるわけです。

ですが、予告編のセリフが「無かったこと」になるって、詐欺みたいなもんじゃありませんか。

制作者の言い分は「あのセリフ、やっぱりやめました」「セリフを入れたかったけど、時間が足りなかった」とか、いろいろ言うんでしょうが、そんなのこっちは知らない!てことなんです。

セリフって、とっても大事なものだと思うんですよね。セリフありきでドラマが始まり、ドラマが終わるじゃないですか。

どんな素晴らしいシーンでも、セリフがどうしようもなければ、どうしようもないシーンになります。

それだけ、セリフって重要だと思うのですが、いかがでしょうか。ドラマって秒単位で動いていきますよね。であるならば、ひとつひとつのセリフもすべて意味があり、無駄なセリフってひとつもないはずなんです。

まあ、駄作のドラマには無駄なセリフはありますが、少なくとも「海のはじまり」は「丁寧に作られている」ことに定評があったはずです。

なのに、予告にあったセリフが全く無いってのは、どう考えても視聴者をバカにしているとしか思えないですね。

「セリフがなかったぐらいで大げさな」と思っているとしたら、脚本に対する冒涜なので、別の仕事をしたほうがいいと思いますよ!(右京さん風に)

スポンサーリンク

結局は「海ちゃんの幸せのために」まわりが動くドラマ

このドラマ、夏が主人公でしたが、夏は海ちゃんのために考えたり、働いたり、話したり、悩んだり、弥生と別れたりしているわけです。

ドラマの視聴者には、最後まで水希が許せないって言っている人がいると思うんですが、やっぱりね、子供を残して死んでいく母親は一番気の毒で、かわいそうだなって素直に思うんですよね。

水希はこうするべきだった、というのは後からいくらでも言えるんですが、結局水希はもうこの世にいないわけで、残された人間は生きていかなければいけない。そういうものです。

残されて気の毒なのは、一番小さな「海ちゃん」です。あの子はどうしたって大人は守っていかなければならない。まっとうな大人にしなければならないし、海ちゃんの幸せのために、まわりの大人ががんばらないといけないんです。大人の役目ってそういうことだから。

私は現実的に考えちゃう人間だから、海ちゃんが一人ぽっちで夏のアパートで夏の帰りを待つなんて、危ないんじゃないかと思っちゃう。

また、海ちゃんが一人で夏のアパートと津野君の小田原の図書館や、祖父母の家まで電車に乗って1時間半もかけて行くっていうのが、信じられなかったんですよね。距離感が分かってしまうだけに、「これはまずいだろう、いったい大人は何をやってるんだ」と、観ていて腹立たしかったですね。

子供を守るって、病気にならないようにとか、栄養をつけるとか、勉強を見るとかそういうこと以前に、「外界の危険なものから身を守る」ようにしてやるのが最低限必要なことだと思っているので、

たとえドラマの設定上であっても、そこは「危ないな!」とずっと思っていましたよ。子供を守ってやらないといけませんからね。子供を連れ去るのなんて、簡単にできますから。

関係ないですけど、「地面師たち」でピエール瀧が簡単に連れ去られるのを見て、「大人も危ないな」と思ったりしました。

それができた上で、学校をどうするとか、名字はどうするとか、考えればいいんですが。このドラマのおかしな点は、「小学校1年生の女の子が、1人で長距離を移動する」ことだと私は大きな声で言いたいです。

もっとも、それをさせたのは「水希」ですから、母親としてもそこだけは間違っていると思いますね。だって、自分亡きあと、海が一人で夏のアパートに来られるように練習してたんですから。「海のはじまり」を絶賛する人は多いですが、やっぱりどうしてもダメなことはダメ!って声を大にして言いたいです。

スポンサーリンク

「いる、いない」にこだわりすぎ

このドラマでは、冒頭からラストシーンまで、「いるよ」というセリフが重要になってきます。

「いる」というのは、この場に存在するという意味だったり、もうこの世には存在しないけれど、いつまでも心の中に「いる」という意味だったりします。

毎回毎回、ドラマでは「いる」「いない」「いなくなった」「なくなった」「いた」という言葉が乱立していて、私はわけが分からなくなっていました。

ドラマで「いる、いない」が重要視されるたびに「またか」と思ったりもしていました。

結構長い時間、いる、いない問題でモメていましたが、もうちょっと別の角度からいろいろな言い方をしてもいいんじゃないかな、と思ったりしました。だって、毎回ですよ!

幼い海ちゃんに、どれほどの「意味」が理解できたでしょう。もっと、単純に話してもいいんじゃないかな、と思ったりしました。そのほうが、視聴者にもダイレクトに伝わってくるし。そんなに簡単に分かってほしくないんでしょうかね、ドラマの制作者は。

いやいや、他にもこのドラマではたくさん考えることがあるので、あまりひとつの言葉に費やしている時間も脳みそもないんですよね。

まあ、「いる」「いない」という言葉を大事にしているわりには、予告編の弥生のセリフをすっ飛ばしているので、本当にセリフを大事にしているのかどうなのか、理解に苦しむところではあります。

最終回は結局少しドタバタ

連続ドラマって、初回はすごーーく丁寧に作られています。でも、だんだん回を重ねるごとに、あっちのネタ、こっちのネタを最終回までにどうにかしなくちゃいけなくなって、

結局最終回は「ドタバタしたけどなんとかなった」で終わることが多いんですよね。これは昔っから変わらないみたいです。

だから、今回も夏の休日出勤で無理矢理「津野君と弥生と大和」を会わせたり、月岡家が海の学童保育として役立つようになるんだなとか、場面が冗長な部分と、あっという間に終わってしまう部分とで、こちらはかなり混乱しました。(夏のお父さんにも出てほしかったけど、出なかった。カメラ屋を写すなら、あそこにお父さんもいればよかったのに)

水希の手紙も長すぎましたね。水希の性格からして、もっと短い文章で的確に書いたんじゃないかなって思ったりしました。

で、結局このドラマは何が言いたかったの?って視聴者はみんな思ってると思うんですが、制作者は

「それは皆さん個人個人で違うので、考えてみてくださいね」というメッセージを残しながら終わりました。

まあ、こういう終わり方しかなかったのかな、と思いますが、海ちゃんが幸せになるために、夏がこういう方法を選んだってことは仕方ないですね。何が正解ってことはないので、いずれにせよ「シングルファーザーは厳しいよ」ってことを言いたいのだろう、と思うことにします。

「二人でがんばる」という当初の夏の覚悟は間違いで、「いろいろな人の助けを求めることはとっても大事」で、それは良いことなんだって思います。

海ちゃん、お母さんがいなくて寂しい思いはたくさんすると思うけど、まわりの人たちはみーんないい人ばかりだから、安心して幸せになっておくれ!

世の中、こんないい人たちばかりじゃないから、海ちゃんは幸せだって思う今日このごろです。

スポンサーリンク
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次