この話は、一般人の話です。有名人の話はそこら中にころがっていますが、一般人の話は、ひっそりと語り継がれています。でも、一般人の話には真実が込められており、あまり言えない話が多いのです。私は、「もう時効だからいいよね」と思う話を、このブログで書いていきます。
これは、実話である。私の知り合いのAという男の話をしよう。人間、お金を持っていても使い道を誤れば、あっという間にすっからかんになってしまうという、恐ろしくも情けない話だ。
早くに亡くなったAの両親
彼は私の幼馴染だ。今は60歳。小さい頃からよく知っている。東京近郊の、ベッドタウン。池袋から電車で20分ほどの、立地の追い場所の一軒家に住んでいた。
Aの家はごく平凡な自営業
私は、Aとは小さい頃はすごく仲良が良かったわけでもなく、家が近いのでたまに遊ぶ程度だった。
Aの両親は、働き者だった。Aの家は小さな雑貨屋を営んでいた。雑貨屋といっても、少し大きい化粧品店だ。化粧品だけでなく、トイレットペーパーなどの日用雑貨、さらに手芸道具や毛糸なども扱っていた。
私も私の母も手芸が好きだったので、Aの店に行っては手芸用品を買い求めていた。
駅から少し離れたその場所で、Aの店は繁盛していた。Aの母は洋裁も上手で、店を切り盛りしながら洋裁の内職にも励んでいた。
私にとってAの家は、何の変哲もない、ごく平凡な、平和な一家に見えたし、実際そうだったと思う。Aも、特に可もなく不可もなく、どこにでもいる普通の男の子だった。
高校のころに亡くなった母親
Aは、高校に入ると学校を休むことが多くなった。理由は最初は分からなかったが、「母親が入院している」と噂で聞いて知った。
Aはそのせいもあってか、学業にはあまり身が入らなかった。成績はいつもビリのほうだったが、それを特に気にしている様子もなかった。友達は多いほうで、学校では楽しくやっていたと思う。
母が入院していたせいか、部活には入っていなかった。友達はいたが、部活に入っていなかったので、仲間ができなかった。高校で部活に入っていないと(つまり、帰宅部)、自分の居場所が定まらないものである。私には、なんとなくフラフラしている印象があった。
ある日、担任が言った。「A君のお母様が亡くなりました。」
Aのお母さんはガンだったそうだ。そのことを、私は初めて知った。Aのお母さんは、45歳くらいだったと思う。まだ育ち盛りの息子を置いて、さぞ無念だったであろう。
後から聞いたが、胃がんだったそうだ。当時はまだ今ほどは治療も発達していなかったのだろう。いつもお見舞いに行くと、「痛い、痛い」としか言わなかったので、それを見るのがすごく嫌だったと、あとでAから聞いた。
Aは、病院で母の遺体と対面したときも、葬儀でも、泣かなかったそうだ。だが、家に一人でいたとき、突然涙があふれ、思い切り声を出して泣いたそうだ。泣いたのはそれ一度きりだったと言っていた。
バイトと遊びの大学生活
Aの父は健在だったので、父親が一人で店を切り盛りすることになった。だが、それまで母に任せていた部分が多かったので、店はどんどん寂れていった。
思えば、化粧品も手芸用品も毛糸も、女性相手の商売だ。父は扱っている商品のこともよく分からず、店を手伝っていただけだったのだ。
私も、たまに店に行くことがあったが、落ちぶれた店内といえばよいのだろうか、陳列品は雑多に並び、きちんと棚に整列しているとはお世辞にも言えなかった。そこかしこに、入荷した化粧品や日用品の箱が、山積みになっていた。
少し離れたところに新しいスーパーができ、人々はそこで買い物すれば事足りるようになっていた。
Aは大学生になっていたが、店の手伝いをすることもなく、大学に通っていた。
通っていたと言っても、私の知る限り、あまり勉強には熱心ではなかったようだ。二浪して入った大学だが、留年も一回。同級生が卒業して新入社員になるころは、彼はまだ大学1年だった。
彼は私立大学に通っていたので、授業料もバカにならなかったろう。おまけに二浪していた時は、予備校通いだ。昨今の予備校は大学の授業料くらいはお金がかかる。
小さなお店を経営しながら、父親の苦労はいかばかりだったろう。優しそうなお父様だったことを覚えている。
Aはバイトばかりしていたが、働いてはすぐにやめ、働いてはすぐにやめ、を続けていた。ひどいときは3日目で突然行かなくなったこともあったそうだ。理由は「お腹が痛かったから」と言っていた。お腹が痛いと、何の連絡もせずそのままバイトを辞める男である。何を考えていたのだろう。いや、何も考えていなかったのだろう。
大学時代は、父親の車を乗り回したり、友達の新車を借りてかなり大きな事故(自損事故)を起こしたことも知っている。夜中にスピードを出しすぎて、カーブを曲がりきれずにガードレールにぶつかって車は大破。
友達の車の保険ですべてまかなったそうだが、保険会社から契約を切られたそうだ。気の毒な友達だ。
とにかく、いつもお金がなくてぷーぷーしていた印象があった。私にたまに会ったときも、「ガソリン代がないから少しお金を貸してくれないか」と言われたときもあったが、もちろん断った。私だって、貸すほどのお金はなかったからね。(あったとしても、絶対に貸さない。返ってこないことは分かっていたから。)
Aが就職した直後に父親死亡
それからしばらく、Aの店のことはすっかり忘れ、Aの存在も忘れてしまっていた。私もOLになり、実家から会社に通って忙しかった。
あるとき、家に帰ると「Aくんのお父様が亡くなったそうよ」と母から聞いた。当時はまだインターネットもなかったころだったので、用事はすべて家の電話(もちろん固定電話)を経由してきた。
葬儀に行くと、旧友たちが大勢来ていた。Aのお父さんもガンで亡くなったそうだ。何のガンかは聞かなかったが、Aは喪主で、忙しそうにいろいろ手配をしていた。私はチラっと彼を見ただけで、何も話さず帰ってきた。
ここまでは、よくある話かもしれない。話の本題はここからである。
遺産に頼ってしまった男の末路
両親が残してくれた、アパート
Aには妹がいる。兄弟二人が残されたわけだ。だが、その時はAも就職していたし、妹も短大を出てすでに働いていた。学費がかかるわけでもなく、お互いに自立していたから、まじめに働けばよいと私は思った。
たまに、Aと会って話をすることがあった。どうしているのかと聞いてみると、Aの家は店とは別に、駅の近くにアパートを経営していたという。
そのアパートは立地もよく、住居人も絶えることがなかったので、経営は順調だということだった。
自分たちが亡くなったあとも、子供たちに苦労をさせたくないと願った、両親の努力の結晶である。そんな贈り物をいただいて、Aも大切にするだろうと思っていた。
普通に考えれば、Aと妹が働き、おまけにアパートもあれば、お金に困ることはないはずだった。
父の死亡保険金3000万円
ところが、Aに残されたのはアパートだけではなかった。なんと、父が保険に入っていて、死亡したときに3000万入ってきたのだ。受取人はAだった。
Aは喜び、3000万円をまるまる貯金した。
2000万は普通預金に、1000万は定期預金に入れた。
2000万を普通預金に入れたのがまずかった。何しろ普通預金はお財布と一緒。すぐに出すことができてしまう。自分のお財布に突然2000万円入ったのと同じことだ。
まず、Aは車を買った。大学時代から車は好きだったが、父の車を借りていて、それが不満だったのだ。買った車は当時人気のMazdaのRX-7。スポーツタイプの車だ。いくらだったかは知らないが、2000万の普通預金から現金でポンと買った新車だ。
派手になっていく生活
さらにAの生活は少しずつ派手になっていった。
会社の同僚や部下と、毎晩のように飲み歩き、払いは全部自分。人におごってあげるのが快感だったそうだ。
最初はその辺の飲み屋だったが、すし屋にも行き、そこでも全部払ったそうだ。
帰りは、タクシーもよく使った。8000円くらいはかかったのではないだろうか。
洋服も好きだった。ブランド品は好まなかったが、カジュアルなブランドでも高いものは高い。スニーカーだってジーパンだって、高いものは高い。
私の母がよく言っていた。「1万円札っていうのはね、一度崩すとあっという間に無くなる」。まったくそのとおりで、さっきまでお財布に入っていたはずの1万円札が、一度でもくずすと、残りはあっという間に消えている。お金は不思議なもので、恐ろしい。
Aの場合、大きく使ったお金は車だけだった。だが、気持ちが大きくなり、それまで1万円を大切に使っていたAが、1万円の価値をなんとも思わなくなるのは時間の問題だった。
マイナスになった貯金通帳
1年ばかり経ったころだったろうか。ある日、Aは通帳の残高を知るために、銀行に行って記帳してみた。(当時はネットがなかったから、銀行で記帳するしか残高を知るすべはなかった。)
記帳してみてAは驚いた。なんと、残高にマイナスがついているではないか。
3000万のうち、普通預金に入れておいた2000万はとうに使い果たしていたのである。
貯金というものは、普通預金が無くても、定期預金にお金が入っていれば、そこから借金をするという感じで、マイナスの数字がついていく。
つまり、普通預金を使い果たしても、定期預金にお金がある限り、そこから自動的に流れてくる仕組みになっていたのだ。
驚いたAはどうしようかと思った。もう無駄遣いはせず、マイナスになった分はなんとか働いて補填しようとした。
だが、一度ついた「使いぐせ」はなかなか治らない。人間、生活の質を上げるのは簡単だが、落とすのは至難の業なのだ。
ついにAは決心した。定期預金を解約して、マイナス分を普通預金にあてた。
そして、Aの通帳はまたゼロに戻ってしまった。
Aはほぼ1年で、3000万を使い切ってしまったのである。
アパートは自分で管理
そんなことを私が知ったのは、Aが3000万を使いきってから数年後のことだ。すでに終わった話であったが、私は相当驚いたことを覚えている。当時、20万程度のお給料を少しずつ使っていた私にとって、3000万とはどこか遠い国の話に聞こえたのである。
それで、まだ前の仕事を続けているのかと聞いたところ、とうに会社は辞めたと言った。
今は、パソコンの仕事をしながら、アパートの経営を自分でしていると言う。
アパートはもうかなり古くなっていて、修繕をしなければあちこちボロが出てきているのだが、業者を頼むとお金がかかるから、自分で修繕していると言う。
なんと、管理会社にも頼まず、すべての管理を自分でしているのだ。Aのところには、アパートの住人から電球が切れたとか、退去するとか、そういった類の電話がしょっちゅうかかってくる。
おまけに、「お宅のアパートのゴミの出し方が悪い」と、近所の人からも電話がかかってくる始末だ。
私は「アパートの管理はプロの管理会社にまかせて、自分はどこかで働いたらどうか」と言ってみたが、Aは首をうんと振らなかった。
Aは、自作のパソコンを作るのが趣味だった。趣味が高じて、パソコン修理の仕事を細々と続けていた。とても生活ができるほど仕事が舞い込んでいるとは思えなかったが、何しろ結婚もせず、一人ものである。
自宅は両親が住んでいた家にそのまま住んでいるし、細々ながらアパートの収入もある。
無理して働かなくても、底辺の暮らしはできているようだった。だから会社も辞めることができたのだ。
だが、Aはいつも覇気がなかった。何をやっても楽しくなさそうだった。なぜだろう。やはり、3000万を使ってしまったことに悔いが残っていたのだろうか。私にはAが何を考えているのか、理解に苦しんだ。
親が子供に財産を遺すのは本当に良いことなのか
時は流れ、私も人の親になった。すでに、私の両親も亡くなった。私には弟がいるが、親が本当に少しばかりの貯金を持っていたので、きちんと相続し、弟ときっちり半分にした。それでも、とてもありがたかった。両親には感謝している。
親が残してくれたお金は、使ったらすぐに無くなってしまうほどの額なので、一円でも使わないように、そのまま貯金してある。何かのときまで取っておこうと思う。
私は、なるべく自分の食い扶持は自分で稼ごうと思っている。つましくも、生きているだけで十分なので、毎日「夕飯作るのめんどうくさいなあ」と思いながらも、簡単なものを作って食べている。
Aはどうしているだろうか。生きていることに感謝しているだろうか。余計なことかもしれないが。
親が子供に財産を遺してあげたい気持ちは、痛いほどわかる。子供にはお金の苦労はさせたくないからだ。でも、その前にやることがある。
子供にお金の教育をすることだ。お金の怖さを嫌というほど、子供に叩き込んでおくことだ。日本では、お金について教えてあげる人は親しかいない。学校では教えてくれないし、社会に出てから学ぶのでは遅い。
私は、子供が小学生のときから、お金にまつわる怖い話をたくさんしている。決して、お金を増やす方法を教えているわけではない。(そもそも知らないし。)
お金は、使うよりも、使わないほうが難しいからだ。自分との闘いでもある。
最後にAに会ったとき
かなり前に、私はクラス会でAに会った。「どうしてる?」と聞いたらば、相変わらずの生活を送っているようだった。
友達がリフォームの仕事をしていて、そこを手伝わせてもらっていると言っていたが、毎日仕事があるわけでもなさそうだ。
実家には、結婚しない妹と二人暮らしだそうだ。妹さん、まだ結婚していなかったのか。
老人になっても、兄と妹は一緒に住むのだろうか。まあ、実家に住み続ければ住居費はかからず、せいぜい固定資産税がかかってくる程度だ。
お金は恐ろしい。お金があると、どうしても贅沢をしたいという気持ちに負ける。逆にお金が無くなると、気持ちに余裕がなくなり、人にも優しくできなくなる。
お金は、ほどほどにあるのがよいと、私は思っている。
これでAの話はおしまい。Aはまだどこかで生きている。どうか、お元気で。生きていれば、働くことができるんだから。