映画【愛に乱暴】ゴミ捨て場に放火したのは誰だったのか?

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江口のりこ主演の映画「愛に乱暴」は、淡々と映像が進むが単純な映画ではない。

映画の冒頭は「ゴミ捨て場の火事」で始まり、映画の最後は冒頭の場面に戻る。

はたして、この場面は何を意味するのか?はたまた、ゴミ捨て場の放火犯は誰なのか。

目次

放火犯は何者でもない

結果として、ゴミ捨て場に放火したのは誰だか最後まで明かされてはいない。

むしろ、誰が放火犯であるかはこの映画のストーリーの本筋ではなかった。

「愛に乱暴」について前知識がゼロの状態で視聴したので、冒頭のごみ捨て場の火事を見て「この映画の最後は放火犯が誰なのかを知るだろう」と思って観ていたのだが、そんな考えは甘かった。

放火犯を追求する映画ではなかったのだ。

最初は、主人公の桃子扮する江口のりこ犯人なのではないかと思った。江口はいかにも何かをしでかしそうな不気味な様相を示しているからだ。

次に怪しいのは、旦那に扮する小泉進次郎、その次に怪しいのは姑に扮する風吹ジュンだったが、見事に外れた。というより、そんなことはどうでもよかったのだ。

放火犯はあなたの隣にいる誰か

映画「愛に乱暴」はほぼ全編にわたって桃子(江口のりこ)が出ている。彼女が出ていない場面がはたしてあったのだろうか。

桃子の狂気がどうしてもクローズアップされがちだが、実はこの映画の出演者は全員が自分勝手でわがままで利己的である。他者への思いやりが感じられず、唯一桃子だけが思いやりにあふれているのだ。

映画を観ていると「この人はいい人」「この人が好き」という人物が必ず一人は登場するが、「愛に乱暴」にはそのような「100%いい人」は出てこない。いや、むしろ全員が「そのへんにいる普通の人」である。この映画の怖さは「普通の人が一番怖い」という現実を突き付けているところにある。

そして、ゴミ捨て場の放火事件だ。桃子の家の付近で頻繁にある「ゴミ捨て場の不審火」。

幸い不審火は不審火のままで片付き、民家が全焼するほどの火事には至らず、警察が聞き込みにまわり、近隣の住人はひそひそ話をする程度で済んでいる。

だからこそ、「近隣の誰か普通の人間が、ゴミ捨て場に火をつけている」という事実が「隣の誰かかもしれない」という不安をかきたてる。

ゴミ捨て場に火をつける行為は、たとえボヤですんでも大変な犯罪だ。そんな犯罪を何回もおこしてしまうほど、精神が崩壊している人間が近くに住んでいることを考えると、「誰かしらね」ではすまされない恐ろしさを感じる。

答えはすぐには出ない

この映画が発表されたのは2024年。「AI元年」とも言われるほど、世の中にAIが認知された年でもある。

一般庶民すらAIで簡単に答えを求めるような日常がやってきた。AIに恋愛相談をしたり、仕事の企画をお願いしたり。

AIは何度質問しても嫌な顔ひとつせずに何でも答えてくれる。(正解か不正解かはこちらには判断することもできないが)

AIが身近なものになってから、人はますます正解を急ぐようになった。自分で考えて解を求めることはしなくなった。自分で考えるのは面倒だし、時間もかかるからだ。

「愛に乱暴」は、現実の世界に「解はひとつではない」「正解なんて存在しない」ことを問いたかったのではないか。

人間の生活と心は、直線的ではない。非常に複雑で、人間同士で心が絡みあっている。自分と家族、友達、会社の人間との関係を考えてみれば納得するだろう。

だからこそ「放火犯は誰ですか?」という問いが無意味だということを、作者・監督は言いたかったのではないか。

むろん、放火犯は誰かという問いだけではなく、この家族全員の心と行動にも正解はないのだ。

「愛と乱暴」は観る者の立場によって感想や考え方が全く違う映画だ。あなたはこの映画を観て何を思っただろうか。

あなたが思ったその気持ちこそが、あなたにとっての正解である。映画を観ていない人は、ぜひ視聴されることをお勧めする。年齢や性別によっても違うだろうし、何が正解かは人それぞれだ。

良質な映画とはこのような映画のことを言うのだろう。

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